当ホームページを見てくださって誠にありがとうございます。精神科医、精神分析家(IPA認定)の田中克昌と申します。
私は精神科医として、これまでに様々な精神科領域での臨床にたずさわってきました。
はじめに、なぜ私が精神科領域の仕事に就いたのかについてご説明いたします。ややパーソナルな話になりますが、自分はどのように生きていきたいのか、真実とは何か、社会や文化とはどのようにかかわっていけばよいのかといった悩みを思春期の頃に抱えていました(思春期には特別なことではありませんが)。いろいろと思索の末に、自身の悩みを深く考えたいと感じつつ精神科的な病と隣り合わせのところにいるような思春期青年期の人たちをサポートする仕事をしたいと思い、精神科医になって精神療法という心を扱う営みを実践することに目標を定めました。
そのような想いはあまり変わらず、大学を卒業して入局した精神科教室には幸運にもそうした心を扱うこと、即ち目の前の人と向き合うことを大切に考えている風土がありました。心の世界をきちんと取り扱うには、つまり本格的な精神療法の実践をするには45~50分の時間枠が世界の標準であることを知るようになりましたが、日本国内の平均的な精神科医療では、心を扱ってくれるのが精神科医なのだろうという、一般的に抱かれているであろうイメージや期待とはいくつかの点が大きく異なる状況でした。
①心を扱うような手間暇のかかる精神療法という営みが欧米の先進国と比べて精神医学の中で段違いに過小評価されていて教育システムが限られていること ②精神科外来患者数の急激な増加に伴い5~10分診療が殆どを占めるような余裕のない臨床現場で45~50分という時間枠を設定することが困難になっていること、などです。20世紀の頃とは異なり、心を扱うことが期待されているはずの専門家として精神科医が力を発揮するだけの時間的ゆとりがもはやなくなりつつあるというのが現状と言わざるを得ないのです。このことは手弁当で精神療法的アプローチを実践している少数派の精神科医たちが共有している実態でもあります。
また、400種類以上は存在すると言われる精神療法の中でどのようなものが効果的なのかはそれぞれの精神科医によって異なるのでしょう。私にとって精神分析的精神療法が最も価値があると感じられるに至ったのには、精神分析家の方々の、特に週4日以上の毎日分析の臨床ケース報告を聞いて、治療という水準を超えた生きた営みがそこにあると感銘を受ける体験が数多くあったことがあります。
週に4日以上の頻度で行われる精神分析は、ヨーロッパ、北米、南米を中心に、哲学や心理学領域とも関連のある経験科学として一目置かれつつ、その存在が知られている歴史があります。ロンドンやパリでは精神分析という文化が深く根付いていて、数百人以上の精神分析家がいると言われています。またドイツでは週に3日の精神分析的セラピーが保険診療で認められていたり、アメリカ西海岸では多くの映画俳優が直感力や創造力の向上のために精神分析を活用しているとのことです。1回45~50分で週に4日以上の頻度で行われる精神分析では殆どが寝椅子を使って行われます。寝椅子で横たわっている被分析者からは分析者の表情が見えないわけですが、分析者からも被分析者の表情が見えないことでお互いに自由に空想しやすくなり、寝椅子に横たわるという構造から身体感覚も研ぎ澄まされて乳幼児期の気持ちに同一化することが容易となります。被分析者が分析者に十分な依存の時期を体験してから自立に向かうという、殆どの人が乳幼児の頃に体験してきたような心的世界に新たに身を置き続けることになるわけですが、乳幼児期にやり残したことを新たに体験していくには数週間ぐらいの短期間というわけにはいかず、それなりの時間的な厚みが必要なのです。
私自身は日本精神分析協会の精神分析家候補生という立場で訓練分析家による週4日の精神分析体験を数年間持ちましたが、幼少期の頃の感覚印象が戻ってきたり、本来ならこのようにしたいのだろうという私自身の本心を、それまでの想像を超えた形で自覚させられるような営みを積み重ねてきました。本心と一言で表現しましたが、私が空想していることと分析家が空想していることが交差していく中で真の自分が浮かび上がってくるような、その瞬間でしかとらまえられないものです。分析空間での今現在に過去もこれからの先の未来もすべてがその瞬間に含みこまれているとも言えます。反対に、様々な積み重ねを経て、後になって大切なことが重みを伴って突然のような形で実感されてくることもあります。
そこまでにものを考えるということは日常ではほぼ皆無でしょう。パートナーや親友、恩師には何でも相談できているというような反論もあるかもしれません。しかし、類い稀なほどに幼少期から成熟している方を別にしたら、私たちの多くは自覚しているレベルを超えて、家族や親友にも言えないような、生きていくことに人それぞれ何らかの苦悩や孤独を抱えているのだろうと推察されます。また、そのように自覚できるような苦悩や孤独ばかりではなく、無自覚なものに苛まれているということも少なくありません。そこにアプローチするのには、1人で長い旅に出て何かを悟ることを目指すというようなやり方では通常は難しく、プロフェッショナルな第三者の存在が助けとして必要になることでしょう。自分自身の盲点を独力で自覚するのには限界があるからです。家族や親友とは異なり、日常の接触がないような現実の利害関係がないポジションにいること、そのための訓練分析を受けていることが分析者を分析者たらしめています。分析者は、真の自己を浮かび上がらせてくれるための分析室という特別な空間で、被分析者の語りをオーケストラの演奏のように注意深く聴いてくれるのです。つまり精神分析とは、今現在という瞬間瞬間を分析者と共にするという特別な時間と空間を提供される営みなのです。精神科的な病にかかった方のみならず、愛する人を喪失した、かなりの外傷的な出来事に見舞われてきた歴史がある、健康や職を失った、相当な孤独を自覚させられていてそこから抜け出せない、不条理なことに繰り返し巻き込まれてしまっているなどという、おそらくは一人の力では立ち向かうことが困難と思われる状況に、長い人生の中ではどなたであっても一度や二度ぐらいは遭遇することがありましょう。そのような時こそ、自分の本心に触れ、自分の特性を知ることは、生きていく過程で抜け落ちてきた必要なものを発見し直すのによいタイミングです。よりよく生きていくための精神分析という営みが、特別な時間・空間としてみなさま方のお役に立てるものの一つとなることを願ってやみません。